なぜ、人は本来体を洗う場所である浴槽をゴミで埋め尽くしてしまったのか。その問いに対する答えは、単純な「だらしなさ」という言葉では決して説明できません。多くのゴミ屋敷の現場を回る中で私が感じたのは、風呂場がゴミで埋まる瞬間というのは、その人の心が深い絶望や無気力に支配された、最後のアラートであるということです。セルフネグレクトという言葉がありますが、自分自身の清潔を保つ意欲を失うことは、生命維持そのものへの関心を放棄することに等しいと言えます。最初は、お風呂に入るための準備、例えばお湯を溜める、服を脱ぐ、体を洗って乾かすという一連の動作が、とてつもなく重い負担に感じられるようになります。仕事の過労、人間関係の破綻、あるいは親しい人との別れ。そうしたストレスが積み重なると、最もプライベートな空間である浴室から、まず管理が放棄されていきます。シャワーだけ済ませるようになり、やがてそのシャワーさえも億劫になり、最後に残った浴槽という「穴」が、手近なゴミを捨てるための便利な空間に見えてしまうのです。浴槽にゴミを捨て始めたとき、その人は「もう自分はどうなってもいい」という無意識の宣言をしているのかもしれません。湿り気を帯びたゴミの山は、外界の厳しい視線から自分を守るための、歪んだ形の繭のような役割を果たしているようにも見えます。また、ゴミ屋敷の住人の中には、極度の完璧主義が裏目に出て、一度汚してしまった風呂場を見て「もう二度と元には戻せない」と絶望し、極端な不潔へと振り切れてしまうケースも少なくありません。私たちは清掃の際、ゴミを袋に詰めるだけでなく、依頼主の心の欠片を拾い集めるような気持ちで作業にあたります。浴槽の底からかつての生活の痕跡が現れるたびに、ここに至るまでの苦悩を思わずにはいられません。だからこそ、清掃が終わった後に「今日はお湯に浸かってくださいね」と声をかけることは、私たちにとって最も大切な儀式です。温かいお湯に触れることで、冷え切っていた心が少しずつ解きほぐされ、失われていた人間性が回復していく。風呂場を綺麗にすることは、物理的な洗浄であると同時に、傷ついた心を癒やし、再び立ち上がるための準備を整える、神聖なプロセスなのです。