私が初めてゴミ屋敷の清掃ボランティアに参加することを決めたのは、正直に言えば単なる好奇心と、少しの自己満足からでした。テレビの特集で見るような光景を実際に目にし、困っている人を助ければ自分も良い気分になれるだろうという、浅はかな考えがあったことは否定できません。しかし、実際に現場に立ち、そこから運び出される大量の「モノ」の重みを感じたとき、私の考えは根本から覆されました。現場となった家は、閑静な住宅街にある一軒家でした。しかし一歩中に入れば、かつての「家」としての機能は失われ、ただ不用品を詰め込むための倉庫のようになっていました。私が担当したのは、台所周りの仕分け作業でした。そこには、数年前に期限が切れた調味料や、一度も使われていない調理器具、そして洗われずに放置された食器が山積みになっていました。作業中、私は「どうしてこんなになるまで放置したんだろう」と心の中で批判的な感情を抱いてしまいました。しかし、作業が進む中で、ボランティアリーダーから聞いた住人の男性の話は、私の傲慢さを打ち砕きました。彼は、奥様を亡くしてから、あらゆる気力を失ってしまったというのです。かつて奥様が使っていたお玉を袋に入れるとき、私の手は止まりました。これは単なる金属の塊ではなく、彼が愛した人との繋がりの欠片なのだと気づいた瞬間、ゴミの山に見えていたモノたちが、すべて意味を持った「記憶」に見え始めました。ボランティア活動において、モノを捨てるという行為は、実は住人の心の一部を切り取ることと同義なのかもしれません。だからこそ、私たちは慎重に、そして敬意を持ってモノを扱わなければなりません。一つの袋を満たすたびに、私は自分の持ち物についても考えを巡らせました。私たちはどれほど多くの不要なモノを抱え、それにエネルギーを奪われているのでしょうか。彼がゴミに埋もれてしまったのは、決してだらしなかったからではなく、あまりにも重い悲しみを抱えていたからに過ぎません。作業が終わり、夕方に空っぽになった台所を見たとき、私は涙が止まりませんでした。そこには、再びご飯を作り、誰かと食卓を囲むことができる「可能性」が広がっていました。掃除を終えて帰宅した後、私は自分の部屋の片付けを始めました。ボランティアを通じて学んだのは、整理術とは単にモノを捨てる技術ではなく、今の自分にとって何が大切かを見極め、自分自身を愛するための心の訓練なのだということです。ボランティア活動は、誰かの部屋を綺麗にするだけでなく、参加する私たちの内面をも整えてくれる不思議な力を持っています。あの日、埃まみれになりながら感じたモノの重みは、私がこれから生きていく上での大切な指針となりました。モノを減らし、心に余白を作る。その大切さを、私はあのゴミ屋敷で出会った数々の遺留品から教わったのです。
初めての清掃活動で学んだモノと心の整理術